はじめに
こんにちわ。前回山岳部インタビューの際に登場させていただいた、青山学院大学山岳部の副将杉本です。
インタビューの中でも少しだけお話しさせて頂いたヒマラヤの未踏峰への挑戦ですが、2018年9月に行うことを我々のホームページにて先日発表させていただきました。
そしてこの度、この壮大な挑戦の軌跡をCAMPIC内にて連載させて頂くことになりました。
記念すべき第1回目は「未踏峰への遠征が決まるまで。」をお話しします。
青山学院大学山岳部の過去の海外遠征実績
今回の遠征の話をする前に、青山学院大学山岳部が過去に行ってきた遠征の内容を振り返ってみたいと思います。
1965年 東部ネパール学術調査隊
折からカシミールで勃発した中印国境紛争はシッキムのナトウ・ラにも飛び火し、ネパール領ではないにしろ、この周辺の国境は緊張を強いられるになり、またネパール領から外国隊の無届違法登山による中国領への越境が問題になったこともあり、ネパール政府はこのエリアでの登山を禁止しました。
この措置によってラシャール登山は断念。
1974年 ヒマルチュリ遠征隊
7050mに達するもその後の悪天候によって撤退。
2010年 アウトライアー登山隊(第1次)
ヒマルチュリから実に36年の時間が流れていました。ヒマルチュリ遠征隊に当時参加していたメンバーはすでに60歳代。
なんとしてもヒマラヤ7000m台の未踏峰ということでカンチェンジュンガ山域のアウトライアーを選ぶ。6700mに村上隊員が達するも上部のルートの悪さと時間切れのため断念。
2013年 アウトライヤー登山隊(第2次)
山の編集長でおなじみの、萩原(当山岳部OB)が隊長を務め、現役学生だった本田先輩を始め、村上(監督)3名が登頂を果たす。
創部85年経って、青山学院大学山岳部として初めて7000mの未踏峰の登頂を成し遂げることができました。
2018年海外遠征のキッカケ
2013年の我々の登頂成功がキッカケだったのかは定かではありませんが、近年は他大学の山岳部による未踏峰遠征が活発になってきていました。しかも、学生主体で遠征を成し遂げていたのです。
一方、青学山岳部の2013年アウトライヤー成功は、山の編集長で有名な萩原浩司(当山岳部のOB)を隊長とし、登攀隊長は村上監督。つまり、現役学生が主体とは言い難いということが部員として残念だと感じていました。
2015年4月。私杉本が山岳部に入部しました。高校時代から山岳部で活動をしており「いずれはエベレストの頂に立ちたい」という思いから山岳部のドアを叩いたのです。
入部時に監督から「なんで山岳部に入ったの?」と聞かれました。それに対して「エベレストに登りたいから!」と即答した私。返ってきた言葉はまさかの「おう、行こうぜ!」
これまで仲間や友達に同様の話をしても「そんなの無理~」とか「お金かかる~」とネガティブなことばかり言われていたのですが、まさか即答で「行こう!」と言われるとは・・・。
その時は冗談だろうと思っていたのですが、実は本当(マジ!)だったのです。
エベレスト周辺の山々
話は変わりますが、今回のメンバーでもある1年先輩の田口さんは野球部から山岳部へ転部した経緯があります。高校野球部では甲子園を目指してきたけれども、大学の野球部で何を目指したらよいのか分からなくなり、別の頂点を目指したいと決心し山岳部に入部したそうです。
そして、監督と新たな目標としてヒマラヤ遠征ができたらいいねという夢を語りあっていたらしいのです。
そうです、ここでつながったのです。
田口さん1人ではヒマラヤ遠征は中々実現が難しい。あと1人位は強い情熱と高いモチベーションを持った学生がでてこないかなぁ。と監督はこっそり考えていたとのこと。
だから、あの「行こうぜ」という言葉が出てきたのです。
そして、入部して数ヶ月後の夏には「さてどこの山にしようか」という目標設定の行動が開始されていました。私にとっての遠征のキッカケは、入部した時の「エベレストに登りたい。」その一言でした。
山の選定
ネパール政府が2014年に新たに104座の未踏峰への登頂許可を発表しました。
我々はこの中から、
- 7000m級の未踏峰であること。
- 学生主体の隊で登頂ができるルートが取れること。
- 東ネパール カンチェンジュンガ地域とする。
を条件に選定をしました。
3.の条件は、他が持っていない過去数度の我々山岳部の遠征によって、自分たちの足で集めた確かな情報があります。これを最大限有効活用することで、他隊に先んじることも安全配慮をしっかりと行えると考えました。
その結果、3つほどの山に絞られたのですが、最終的な判断は見た目です(笑)
そして決定した山はAnidesha山群の未踏峰「White wave(6960m)」。
Whitewave(6960m)は名前が現す通り「白い波」が山を覆っているとても美しい山です。そして頂上は綺麗なトンガリを見せてくれています。
このあたりの感覚は、山をのぼり始めた人の多くが感じる「槍ヶ岳に登りたい」という気持ちにとても近いかもしれないですね。
山が決まったあとは、インターネットはもちろんのこと、ネパール現地の旅行代理店や、ヒマラヤンデータベース、世界中の登山雑誌を集めて登頂の記録が無いかを確認しました。これがなかなか大変な作業です。資料によって標高がバラバラだったりもします。
カンチェンジュンガ(8586m世界第3位の高峰)に至るルートの高度順応に使われる可能性もあるので、周辺の山の記録もすべて洗い出しました。
調べている中で、1973年に西堀栄三郎氏が行ったヤルンカン8505mの遠征時にWhitewaveに登っている可能性が考えられました。偶然にもご子息である西堀岳夫さんが山岳部OBであることを恥ずかしながらその時初めて知り、ご自宅にお話を伺いに行ってきました。どうやらルートは外れていたので、ここでは無事未踏峰であることが確認できました。西堀OBからは、父栄三郎さんの南極探検隊のとても貴重なお話を沢山聞くことができました。
ちなみに、2013年5月にニュージーランド隊がWhitewaveを目指していたことは、インターネットで公開されていましたのですぐに把握できましたが、再挑戦をいつするのかまでは分かりませんでした。なのでここからはスピード勝負になりそうだと感じていました。
2013年アウトライヤー遠征時に撮影した写真から山を選定
メンバーが増える。
目標とする山。中心メンバー。が決まりました。すぐさま監督を招聘です(笑)
我々2名の学生と40歳を越えた村上監督の3名です。村上監督は、2010年、2013年のアウトライヤー遠征に参加し、登攀隊長として隊を率いていましたので、これ以上心強いメンバーはいません。監督の同行であれば山岳部の隊としても成立します。
その後、2016年から具体的な計画を立て始めました。どんなトレーニングをしておけばよいのか。国内で行くべきルートはどこか。そんな活動をしていると、2017年の山岳部新入部員2名(池田、松原)が興味を示し、どうしても参加させてほしいと直訴しました。
一旦は、参加を隊長(村上監督)が拒否したものの、2名の並々ならぬ熱意におされ、監督に再考をしてもらうための直談判しました。その結果今度はあっさりと参加を認めてもらうことができました。
一度目の参加希望表明では「何も伝わってこないから参加させない。」ということだったようで、二度目の直談判では、「伝わったから。一緒に行こう。やろう。」とのこと。どこまでも熱い男です。
最終計画決定
そして最終的に計画がすべて決まりました。
山の名前:Whitewave 標高6960m(現地名称:Anidesh Chuli)
エリア:ネパール東部カンチェンジュンガ山郡
日程:2018/9/10前後〜10/31
メンバー:
隊長:村上正幸(山岳部監督43歳)
登攀隊長:田口純也(4年)
記録:池田昂史(4年)
食糧:杉本俊太(3年)
装備:松原峻彦(2年)
少し長くなってしまいましたが、今回はここまでとなります。
次回は、ヒマラヤ未踏峰へ挑戦するメンバーの紹介をしたいと思います。
青山学院大学山岳部情報
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